34年の時を超えて出版された『松本雪崩裁判の真実』の謎を追って<その③ 第3~第5の謎>

謎3)研修会に参加した当時の山岳部顧問(個人的には担任でもあった)I先生はどのような気持ちだったのか?

 

この本(『松本雪崩裁判の真実』)を読むとわかるが、雪崩に巻き込まれたのは複数あったグループのうちの教師が集められた6人グループである。

 

一列に6人並んで雪上訓練をしていた左3人が雪崩に巻き込まれ、1人(S先生)が亡くなった。

 

そして残りの3人のうちの1人に当時私の担任でもあった山岳部顧問のⅠ先生がいた。

だが、本書にでてくる裁判のくだりや、聞き取りされた中にI先生はいない。丁寧に取材をする泉さんが聞いていないということはI先生が意識的に避けていたとも考えられる。

高校教師という公務員の立場であれば、県を相手に裁判を起こすことのリスクを考えても不思議ではない。

 

I先生とは卒業以来32年ぶりに開催された昨年の同窓会で久しぶりに顔をあわせてはいたが、きちんと話をしていなかったので、連絡先を知る同級生から自宅電話番号を聞き、お盆に帰省した機会を使って、I先生の自宅を訪ねた。

 

果たして、お盆の8月12日、普通なら家族じゅうで集まってのんびりする日であるが、I先生はなんと母校で仕事だった。創立150周年事業に向けた事務作業だという。

 

そして、帰宅後に雪崩とS先生について話してくれた。

 

当時は自分も30歳になったばかりの若手でいっぱいいっぱいだった、他のことに対応できる余裕がなかったと。考えていたのは山岳部がなくなるような事態は絶対に避けなければということだったそうだ。

 

さらにわかったのは、

・I先生も京都大学出身で、亡くなったS先生とは大学も同じだったということ

・雪崩が起こる前に、自分のワカン(登山靴の下に装着する雪山を歩きやすくする道具)がはずれ、履きなおしていたために、当初と並び順がズレていた

ということだった。

 

そう、場合によってはI先生が雪崩に巻き込まれていた可能性は十分にあったのである。

 

生と死が紙一重で分かれる、実際にそうした状況にあったとき、自分だったらどのような思いを持つだろうか?

正直、そうなってみないとわからないが、複雑な感情を抱くことは間違いない。

 

逆に、そんな状況があってまで、よく山岳部顧問を続けたなとも思った。

 

ちなみに、保身から話をしなかったのではないか(※I先生は、その後県内の2つの校長を歴任)という疑惑もさりげなく質問してみたのだが、

「出世はまったく望んでなかったし、何だったら校長時代にマスコミの前で謝罪したこともある」と戒められた。

 

謎4)「個人の責任を問わない」のは戦略だったのか?

冒頭に書いた、2017年の栃木県での雪崩事故裁判と松本雪崩裁判の大きな違いは、

「雪山講習会を指導した教員の個人責任」を追及したか、否か である。

 

前者は死亡者が多かったせいもあろうが、個人責任も追及しているのに対し、

後者(松本雪崩裁判)では個人責任の追及はされなかった。

 

追及されなかったことにより、当時無謀とも思われた行政相手の訴訟に勝てた可能性は高い。

 

個人責任を追及していた場合、

「犠牲者が高校教師であると同時に、加害者(研修会の指導者)も高校教師」

となるため、県高教組が支援しづらくなるからだ。

 

物語の終盤、署名を集めるために、県内の県教組が尽力してくれるのだが、これがなかったら勝利へのうねりは起こらなかったかもしれない。

 

だが一方、子どもを亡くした親の心情的には、「研修会指導者の個人責任も追及したい」のは当たり前のことだ。

 

個人責任が追及されなかった理由はいくつか考えられるが、

この疑問を松本城近くに事務所を構える「あるぷすの風」法律事務所の中島弁護士にぶつけてみた。

「松本雪崩裁判」では原告弁護団の中心人物にして、キーマンである。

 

中島弁護士からのメールでの回答によれば、S先生のお母さんは当然個人責任を追及したかったと思うし、実際話題にもなったが、行政相手の裁判では残念ながら勝つことが難しい上に、当時、雪崩発生の責任を問う判例を自分は知らなかったので、とにかく「県相手に責任を問うことに争点を絞った」とのことだった。

 

したたかな戦略というよりは、勝ち目がないと言われていた裁判で一点突破の勝利を得るための苦渋の選択だったといえるだろう。逆に、このときに前例ができたことで、那須では個人の責任にも追及が及んでいるとも考えられる。

 

謎5)なぜ泉さんは実名にこだわったのか?

謎2でも書いたが、有名山系出版社社から発売されなかった理由は、著者の泉さんが実名にこだわったからだ。

 

当たり前だが、多くのノンフィクションは、登場人物が実名で書かれる。

仮名を使う場合もなくはないが、説得力が著しく低下するうえに、何かしらの理由で仮名にしたということになるので、余計な詮索も生むことになる。

 

だが、実名を入れて記述するということは訴えられるリスクも非常に高くなる。そんなリスクを負ってまで、なぜ泉さんは実名にこだわったのか?

 

実は、第一作『いまだ下山せず!』では多数の登場人物がいる中で、物語の主役ともいえる遭難した3人のうち1人だけが仮名で描かれている。

同じ学友会に所属し、気の置けない友人だったにちがいないが、この第一作を読むと、この仮名表現にはとても違和感を感じる。

 

第一作での「すべて実名表現できなかった」という悔しさが今回の自費出版をしても「すべて実名表現」につながったのではないか? 

そう確信して泉さんに質問したのだが、この推測は間違っていた。

 

「有名山系出版社が仮名にしてほしいと言ってきた人物は、本作の最重要人物の一人。裁判の証人となり、新聞にも発表されました。彼が仮名になってしまうと、この本はノンフィクションではなく、物語になってしまう。だからここだけは譲れなかった」

これが答えだった。

 

人は何故、山に登るのか?山とは何か?

「松本雪崩裁判の真実」とは直接関係ないことなのだが、謎解きを進めているうちに、改めてつらつらと考えた。

 

高校時代には「くだらない質問だ。登りたいから登るに決まっている。

こんな質問をしている時点でどれだけヒマなんだよ」と思っていた。

質問の本質は、ではなぜ登りたいと思うのか?ということなのだけれど……。

 

さて、この質問、皆様はどう思われるだろうか?

 

現在のように登山がレジャーになる前、我々の親世代(学生運動世代)以上には「自分探し・自己探求」的な意味あいが強いように思われる。

もちろん答えに正解はなく、その時その時に感じることが答えではあるのだが……。

 

私も50歳を過ぎ、何故か周囲の友人たちが山に登るようになった。信じられないが本当だ。これまで「登山なんて大変なだけで意味がわからない」といっていた人たちが「楽しい」と登り始めている。

 

もともと山と信仰は結びつきやすい。

何かしら人間の本質的な部分の拠り所になっているのは間違いない。

 

最後になったが、泉康子著『天災か人災か? 松本雪崩裁判の真実』(言視舎刊)、興味をもっていただけたら、ぜひ購入をお願いします!

 

著者の泉さんによれば、すでに50通以上の読書感想の手紙が届いているとの。

そんな反響は今時なかなかありません!

購入し、読んで面白かったら、ぜひ著者に感想を送ってください。

『天災か人災か?松本雪崩裁判の信実』書影

 

第一作の舞台となった常念岳を松本平から望む。左には槍ヶ岳も見える

■追記その1)

泉さんの第一作『いまだ下山せず!』では、前述したとおり、1987年の5月に常念に向かう一ノ沢で遭難遺体が見つかりますが、この年のまさにGW直前に実は私は県立高校の新一年生として、新人歓迎山行で一ノ沢ルートで常念に登っていました。当時はひたすらキスリング(昔ながら山用リュック)が重く、死ぬほど重く、さらに夜は雨に降られ、私自身は苦しかった思い出以外は何も覚えていないのですが、なんと顧問として同行していたI先生(こちらも初山行)は、この遭難した「のらくろ岳友会」のメンバーが登山道に貼っていた「訪ね人のチラシ」を覚えていました。「のらくろ」という特徴的な名前が記憶に残っていたそうです。何というニアミス!こうした不思議な縁も感じました。

 

■追記その2)

山系有名出版社が忖度した雪山講習会の講師だった教諭は、自身も五竜遠見の雪崩に巻き込まれ、30分も埋もれた後、掘り起こされ一命を取り留めている。この教諭との法廷におけるやりとりが、この本の肝の一つであり、法廷でのらちがあかないやり取りに傍聴者から怒りをぶつけられたりもしています。子どもを亡くした親の立場からは、この教諭を許せないと思ってしまうのは確かなのですが、一方で「県高教組が亡くなった教諭を支援することに異存はない」と答えているシーンがああります。そうとしか答えられないわけですが、自分が同じ立場になったとき、同じように受け入れられるかなとも思いました。顧問教師という存在について、在学時は「荷物が軽くて楽して登れる人」としか思っていなかったのですが、その背負う責任の重さを改めて認識した次第です。

 

■追記その3)

たびたび本文中で登場する、泉さんの第一作『いまだ下山せず!』は現在絶版となっており、中古で買うしかないのですが、もしこちらの本をもし入手されたら「表紙の画像(画像参照)」に注目してください!冬の槍ヶ岳に向かう3人パーティーの姿があります。私はずっとイメージイラストだと思っていましたが、なんと遭難する前に別のパーティがたまたま撮影していた写真を使っています。著者が仲間の遭難場所を探すために、同じ時期に入山した無数の登山パーティに確認作業を進める中で、たまたま撮影されていた写真を入手していたのです。この後、3人は帰らぬ人となってしまうわけだが、そんな場面が撮影されていたと思うと、何とも言えない感慨が沸き起こります。

槍に向かう3人(この後遭難)が撮影されていた表紙の写真