謎1)なぜ雪崩から34年もたった今年発売だったのか?
著者の泉康子さんに会うべく、
私は現在も78歳で現役フリー編集者として元気に働く大先輩編集者に連絡をとった。
聞けば泉さんは86歳でケータイもスマホも使っていないという。
久しぶりにファクスを使って連絡をとり、
私は8月のお盆前に吉祥寺の喫茶店で待ち合わせをした。泉さんは小柄で大変元気な女性だった。
本にも記載されているが、家族が病気だったのとコロナ禍などもあり、執筆が10年、出版が5年漂流したという。
著者・泉さんに聞いた謎1の答えは
「最も大きな理由は、那須の事故です。松本雪崩裁判の判決は1994年。もう29年も前に“雪崩災害の8割は人災”ということが明らかにされたのに、まったく広まっていない。これを伝えなければいけないと強く思いました」
だった。
だが前述したように出版は5年漂流した。これが2つめの謎である。
謎2)なぜ出版は5年遅れたのか?そして山関係の有名出版社、および私の会社から発売されなかったのか?
本格的な山岳関連本の場合、まず思うのは、「山関係では有名な出版社から出版されていそう」ということだ。私もそう思った。だから著者の泉さんに確認した。
すると、やはり当初は山関係で知らない人はいない有名出版社から発売する予定があったのだという。
泉さんがその出版社に持ち込んだところ、ぜひ出版しましょうと話が進んだという。
だが、原稿のテキスト化を終えた段階で、ある人物を仮名にしてほしい、という条件がだされた。
そして実名にこだわった泉さんがこの条件を断わり、出版の話は流れた。
その有名山出版社が仮名条件をだしたのは、雪崩事件では講師を務めていた高校教師で、その後は長野県山岳協会の会長を務めた人物だった。
山岳界隈での知名度が高いため忖度したのだろ、と泉さんは推察していたが、
それは間違っていないだろう。
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忖度などなさそうに見える世界にも忖度はあるのだなと改めて実感したのだった。
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そして泉さんはヤマケイからの出版を断念した後、私の勤める出版社にも連絡をしていた。第一作を刊行した出版社から第二作を出すのはごく普通のことだ。
だが、この話も立ち消える。
以下は私の調査結果である。
泉さんは私の会社内の幹部と大学時代の知り合いで、その人物よりも年長である。
幹部経由で『松本雪崩裁判の真実』の担当になったのは、20代の若手女性編集者だった。
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そして
・その女性編集者の出産タイミングとコロナ禍が重なり連絡が取りずらくなったこと、
・女性編集者の担当は文芸で、ノンフィクションではなかったために、うまくコミュニケーションが取れなかったこと、
こうした事情が重なって出版は実現しなかった。
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「34年前の雪山で起きたノンフィクション」がヒットしにくそうな商品であることも一因にはあったと思う。
結果として、泉さんは言視舎から自費出版する道を選んだ。
これは本当にすごいことだ。
ある本が出版される場合、たとえ売れなかったとしても、著者は原稿料や印税を手にする。リスクはあまりない(次回作が作れなくなる可能性はある)。
出版社はさまざまな本を出版し、売れたり売れなかったりすることで損失を回避するわけだが、自費出版は一発勝負。売れなければが損失はすべて自分にかえってくる。
自費出版にどのぐらいの費用がかかるかは、紙とボリューム、装丁へのこだわりなどにもよるが相当必要である。
そんなリスクを冒してまで泉さんが出版を実現させたのは、
「“雪崩災害の8割は人災”をもっと知らしめなければならない」
という思いからだった。
発売を実現させるための費用を負担してくれた支援者たちもいた。
『松本雪崩裁判の真実』の編集を担当した大先輩編集者によると、出版するにあたり分量を減らして、値段も安価にしてはどうかと提案したそうである。
だが、泉さんの原稿は削られることはなかった。
そして何といっても「書いて終わり」「出版して終わり」ではないのが泉さんがさらにすごいところだ。
本の発売後、泉さんはJR新宿駅の中央線ホームとJR松本駅前で、自作のチラシを配布したうえに、松本駅前の書店に連絡をするなどした結果、平置きまでされるようになったという。
さらに出来上がった本を日本全国の山小屋と大学山岳部に手紙付きで送ったという。
本を作って満足という人はいっぱいいるが、本は書いた内容を読んでもらわなければ意味がない。当たり前のようだが、これがわかっていない著者はけっこういる。
自費出版だから売る努力は当然でしょ、と思うかもしれないが、なかなかできることではない。
繰り返しになるが泉さんは86歳。
小さな体のどこにそんなエネルギーを秘めているのか?本当に驚くばかりだった。